親鸞・恵信年表
◎承安3(1173)年 親鸞誕生。誕生場所・幼名などは不明。父は日野有範(ひのありのり)、母は不明。
◎養和元(1181)年 親鸞9歳。春に天台宗青蓮院慈円(しょうれんいんじえん)(『愚管抄(ぐかんしょう)』著者)の元で出家
比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)に登り、堂僧として修行をする。以後、建仁元(1201)年、29歳までの20年間をここで学ぶ。
◎寿永元(1182)年 恵信誕生。越後の豪族・三善為教(みよしためのり)(為則)の娘といわれている。
◎建仁元(1201)年 京都・六角堂に参籠し、百日祈願をする。95日の暁に聖徳太子の夢告によって東山吉水(よしみず)(知恩院(ちおんいん))の法然(ほうねん)の門に入り、専修念仏(せんじゅねんぶつ)をする。
◎元久元(1204)年 11月、法然の七箇条起請文(ななかじょうのきしょうもん)に親鸞は「僧綽空(そうしゃっくう)」と署名。
◎元久2(1205)年 4月、法然より『選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)』(法然著)の書写と法然の肖像を写すことを許される。
◎承元元(1207)年 2月上旬、専修念仏停止(ちょうじ)により、親鸞(35歳)は越後国府へ配流、俗名を「藤井善信(ふじいよしざね)」と称した。法然(75歳)は土佐へ。
◎建暦元(1211)年 3月、息男・信蓮房(しんれんぼう)誕生。
11月、流罪赦免(しゃめん)。
◎建保2(1214)年 妻子を伴って常陸(ひたち)へ旅立つ。途中、上野国佐貫(こうづけのくにさぬき)(群馬県邑楽(おうら)郡板倉町)において、三部経千回読誦を発願。中止して常陸の稲田(茨城県笠間市稲田)に赴く。
◎元仁元(1224)年 息女・覚信(かくしん)誕生。この年より主著『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』を書き始めたといわれている。
◎貞永元(1232)年 この年以降、帰洛したと考えられている。恵信も同行。帰洛の時期、理由は不明。
◎建長7(1255)年 絵師・法眼朝円(ほうげんちょうえん)、親鸞の御真影(ごしんねい)(鏡の御影/西本願寺蔵・国宝)を描く。
◎康元元(1256)年 5月、息男・善鸞(ぜんらん)を義絶する。
※権力者と結んで門弟をまどわせたため。
この年以前に、恵信は子の小黒女房(おぐろにょうぼう)、栗沢信蓮房(くりさわしんれんぼう)、益方入道有房(ますかたにゅうどうありふさ)、高野禅尼(たかのぜんに)を伴って越後に帰る。居住地不明。
◎弘長元(1261)年 恵信が病む
◎弘長2(1262)年 11月下旬、親鸞病に臥(ふ)
11月28日、舎弟・尋有(じんぬ)の善法院で、子・益方入道有房、覚信に看取られながら親鸞(90歳)死去
11月29日、東山の延仁寺で火葬。
11月30日、拾骨。
12月1日、覚信は親鸞の死を母・恵信に知らせる。12月20日以降に恵信の元へ届いたらしい。
◎弘長3(1263)年 2月、恵信は娘・覚信に書状を送る
◎文永4(1267)年 この年以前から、恵信は「とひたのまき」に住んでいた。「とひたのまき」の位置については諸説あるが、板倉区長塚の小字飛田(こあざとびた)が有力とされている。
◎文永5(1268)年 この年ごろ、恵信(87歳)は越後で没したらしい。
大正10(1921)年、京都・西本願寺で恵信の手紙10通が発見された。親鸞の経歴・思想などを知る上で貴重な資料である。恵信消息は建長8(1256)年から文永5(1268)年に至るわずか12年間のもので、すべて娘・覚信に宛てたものである。